思い出は味方なんです

 立志式10周年記念っつうことで14歳当時の思い出を話すことにする。


 当時のおれは、ロマンティックに対して、病的なまでに焦がれを抱いていた(人はそれを中二病と呼ぶ)。「ロマンティックあげるよ」がおれの態度。
 いかなる仕草も格好いい、トム・クルーズになりたかったのである。
 バラの花の存在は、ロマンティクには不可欠だ。おれは河北ショッピングセンター内の花屋で、バラを一輪買った。その日は当時好きだったKの誕生日であった。花屋のおばちゃんはバラを包みながらニヤけていた。おれは照れた。
 ロマンティックの演出の為には、バラをバラのままに渡してはいけない。バラを渡して愛を告げる行為は、あまりにも使い古されすぎている。グッド・オールドなど信じなかった。意外性こそがロマンティックだと信じているから。おれはKを放課後の教室に呼びつけた。Kの前でバラの花をひとつひとつ千切る。そのひとつひとつを白いキャンパスに貼付けていく。その作品は、絵の様で絵ではない。絵を描くつもりは毛頭ない。無意味に意味を感じさせる曖昧さ、それこそがロマンティック。じっとその作業に没頭する目も含めて、その行為すべてがロマンティックであると、そう信じていた。


 「あいつマジで頭おかしい」
 それが人づてに聴いた彼女の言葉であった。案の定、彼女とは口を利いてもらえなくなってしまった。いわゆる黒歴史である。花屋のおばちゃんがそんなおれに、「フられるのも人生経験だ」とかなんとかいう、くだらない気休めを言ってきた。おれは花屋のおばちゃんに八つ当たりした。フられる以前の問題なのです。それはクレイジー扱いなのです。それはクレイジー扱いなのです。それはクレイジー扱いなのれs。skれはくらいじーあうrかいなのds。それふいふあかんfmcあ。おえれああ。ああああ1!!あああ!!!!!。。pああああっっ!!おれは錯乱して倒れた。意識が戻ったのは2日後だった。
 それからおれは10年間、ひたすら、ひたすらひたすらひたすら、ひたすら、空気を読む、目立たない、気を遣う、愛を告げない、人に寄り添わない。そればかりを続けてきた。


 今思えば、おれはこのときに、固い固い自分の殻を作ってしまったのである。


 あれから10年経った。おれは環境が変わっていることを実感する。空気を読む、目立たない、気を遣う、愛を告げない、人に寄り添わない。そのすべての行為が否定されている。自己主張なしでは埋もれてしまう都会に、おれはいま居る。
 バラの花を買おうと思う。もちろん、もう、花びらを千切ったりキャンパスに貼ったりすることはない。そんなことはしなくていいと思っている。
 バラの花を、もう一度買おうと思う。おれはグッド・オールドが理解できる年齢になった。素直に、今恋い焦がれる人に、バラの花をそのまま渡そうと思う。その行為が、今おれにできる最上の自己表現であり、それこそが、自分の殻を破ることであると、信じているからだ。おわり

 もちろんバラの花のくだりは作り話ですが、中2の頃あったこと、そのときの感情はだいたい、表現した通りです。つうか立志式から10年も経つんですね。恐ろしいことです。だいたい、成長などしていません。もういい加減大人なんだから、もっと素直になれよって自分に言い聞かせているだけなんです。素直になれずに抱えるストレスが、いよいよ限界に来ています。それは何も恋愛に限ったことではありません。
 あとこれは中二病を否定している中二病の日記って言うアンチテーゼね。アンチテーゼって使いたがるところが中二病だっていうメタ要素ね。一応こういう予防線も張っておきます。予防線張っておくところも成長していない部分のひとつだという自覚くらいはあります。あっこれも予防線ね。

わすれもの

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