水曜日のカンパネラについて

 いつの頃からか、好きなアーティストや作品の魅力を、文章に表すことができなくなった。

 ほんの数年前までは、その魅力をミクシィやブログに書くことが自分の使命だと信じ込み、書かずにはいられなかった。両手が疼くのである。嗚呼今すぐキーボードでその文面を打ち込みたい。嗚呼鎮まれ俺の両の手よ・・・!!居ても立ってもいられないおれは仕方なく、中腰のまま文面を綴る。
 それはまさに愉悦であった。書きなぐった文章がたとえ長文で乱文、かつ駄文あるいは拙文、つまり悪文だと自認していたとしても。

 鳥居みゆきの魅力を文章にすることは多かった。『妄想葬儀』や『麻衣子』などのブラックジョークがふんだんに盛り込まれたコント動画をミクシィ日記に貼付け、そのネタの面白さや言葉遊びの巧みさがいかに素晴らしいかと、何度も何度も主張する。書きなぐり推敲しさらに書きなぐる行為は悦び。そして貼付けた動画の直前にわざわざ「閲覧注意」と注釈をつけることで、「一般人にはこのブラックジョークの良さはわからないに決まっている」と暗に示し、また悦に入るのである。

 あるいはまた戸川純ヤプーズ)の楽曲の魅力を熱心に説明していた。『好き好き大好き』『肉屋のように』『men's junan』などの曲を引用しながら「禁忌たる性的倒錯の精神構造を音楽的芸術に昇華させた」「極端な愛情表現はヤンデレの元祖といえよう」「僕たちが生まれる前にこんなアバンギャルドなテクノがあったのだ」などと偉そうに語るのだ。

 なぜかつては書けたのか。おれは「いわゆるサブカル」に傾倒している自分が大好きだった。
 これら素晴らしきアーティストあるいは作品群を、未だ知らない人がいるのであれば、おれこそが伝道師でなければならないと、信じ込んでいたのである。

 その後おれは中野ブロードウェイを聖地と呼び丸尾末広をネ申と崇めドグラマグラの表紙を周りに見せつけ家畜人ヤプーを我が生涯の愛読書とした。いわゆるアングラ寄りのサブカルだけではない。涼宮ハルヒシリーズの既刊を読破しメタSFとして論ずる。「長門有希はポストエヴァのメタファーと商業主義のキッチュさを引き継いだキャラ云々、フォカヌポウ、コポォ」。黒船(嘉永六年六月二日)。はいからはくち。浮気なぼくら。ホテルニュー越谷(愛のホテル)。その他。その他。
 もちろんこれらは文章で主張しつづけた。

 しかしその後、ここまで出てきた作家やアーティストやら作品は、サブカル通からすればいわゆる「導入部分」に過ぎなかったことを知る。主流文化に対する副次文化をサブカルチャーと呼ぶのであれば、おれの好きだったものたちはいわゆる「サブカル」の範疇にあるのかどうかさえも、わからなくなった。
 「おれはサブカル通だ」という顔をしながら好きなものを熱く語ってきたが、まったくサブカル好きの風上にも置けぬ人間だと、ずっとあとになって自認するのである。

 そうしておれは、「サブカル好きの自惚れ」を自覚してから、好きな音楽、好きな文章、好きなコント、好きな映画を語ることが怖くなってしまった。たとえばレイハラカミが好きになっても、人には決して薦めないのである。薦めたくて仕方が無くなりまずはググる。するとレイハラカミを薦める人間が山ほど出てくる。
 彼らはすでに超有名だ。おれなんぞが語るまでもないのだ。この馬鹿め無知め。そうしておれは唇を噛み砂を噛み爪を噛み指先の皮膚まで噛みちぎり、血だらけになったその手でキーボードを叩き壊すのである。

 それでも、それでも、それでもなお、「好きなものを人に教えたい気持ちは、抑えきれぬものだ」と、改めて自覚するきっかけを、最近得ることができた。おれはずっと押し殺してきた気持ち――思い出させてくれたのが、水曜日のカンパネラというミュージシャンである。

 長過ぎる前置きですがここからが本題です。


【本題】水曜日のカンパネラが良すぎる件について

 出会いは仕事から帰宅中の車内。NACK5の番組「亀梨和也のHANG OUT」で紹介されていたのをたまたま耳にした。「キ・ヴィ・ダーン」の連呼によりおれの脳髄は支配されてしまった。少し幼さの残ったような女声のラップとお遊びに満ちた歌詞から「HALCALIかな」とも思ったのだがそういえば彼女らは3年くらい前にリリースしたアルバム以降活動をストップしているんじゃなかったっけ。
 すぐさま車をコンビニに停め検索する。出てきた出てきた。水曜日のカンパネラだ。再度YouTubeで聞き直す。

 ・水曜日のカンパネラ『桃太郎』

 美しいピアノの旋律から始まる打ち込みハンドクラップに興奮。民俗音楽を思わせる音階。「引き蘢りゲーム厨の桃太郎がじいさんばあさんに『鬼が島に行け』ときびだんごを持たされ外に出るものの仲間になってくれるのが犬猿雉のペットのみ。やっぱり鬼が島には行きたくない」云々というストーリー。そこに盛り込まれた「魂の16連打」をはじめとする溢れる高橋名人愛とハドソン愛が異化効果を強め、思わず聞き入ってしまうのである。作詞作曲はケンモチヒデフミさん。

 ・水曜日のカンパネラ千利休

 懐かしくも切ないエレクトロサウンドと舌足らずな彼女の歌声におれは艶やかさすら感じる。それはヤプーズの『ロリータ108号』を聴いたときの感動に似ている。
 美麗なミュージックビデオにも注目すべきだ。

 ・水曜日のカンパネラ『ミツコ』

 意味が通っているようで無意味なようにも思え、しかし韻を踏んでいるという点においてやはり意味がある歌詞。そもそも考察しようと思えばいくらでも考察できてしまう余地、を残してくれる言葉選びこそ芸術だ。
 回転する映像は狂った都会の街を、剥がれた身ぐるみがひとりでに走り出すシーンははそんな都会に一人はだかのまま取り残されてしまった虚しさを表現しているような気がするがそれはやはり気のせいなのかもしれない。いくらでも考察できてしまう余地づくりは才能だ。
 風景が映り、それを映すカメラが映り、そのカメラを持ったヴォーカルのコムアイさんがさらに写真となるというコマ撮りのメタ構造もわざとらしくなく表現されていて良い。


 
 「水曜日のカンパネラ」の面白い音楽を表現する語彙がまだまだ足りない。これから聴き込んでいくことでより適切な表現ができるのだろうか。

 最後にコムアイさんへのインタビュー記事の一部を参照する。


Fashionsnap.com—【インタビュー】2015年ブレイク必至「水曜日のカンパネラ」とは?コムアイがレクチャー
http://www.fashionsnap.com/inside/camp-interview/

 今年に入ってから特に、ちょっとずつ聴いてくれる人たちの中に「ラップしてるけど全然歌詞に意味は無いちょっと古い感じのサブカルっぽいあれね」という「水曜日のカンパネラ」のイメージが出来てきたのではないかなと思うと、嬉しいです。


 ——「サブカル通の自惚れ」の葛藤を、優しく慰めてくれるような言葉に聞こえた。
 おれは彼女のこの言葉に、救われるのである。